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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

戯曲 風博士・・・和楽座公演

            


      風 博 士(坂口安吾全集)より 


                 脚色  高井  外

                 潤色  吉馴  悠


          一場


     舞台は先の「母娘」のままでいいが、部屋一面に本 や雑誌が散乱し足の踏み場もないこと。


     登場人物

     風博士

     蛸博士

     私

     雲日涌蔵(くもがわくぞう)

     雨似濡経(あめにぬれたか)

     鳥我翔造(とりがとぶぞう)



     幕が揚がる前に、激しい風の音、嵐が泣叫ぶ音が場内一面を揺るがす。

     明かりが入ると、

     男一が机の前に立って、


男一 皆さんは、彼の有名にして偉大な風博士をご存じありまし ょうヤ。

   なに、ない、ご存じない。知らぬ存ぜぬと言われるかな。

   それは、それは・・・

   世間は広いようで狭いものですな。ああ、ご案じあるな、

   なにも知らぬからと言って片身を狭くしたり、胸を小さく なさることはありませんぞ。見識が少ない分、お

尻が大きいと恥じることなど更々有りませんぞ。

   我輩など、風博士を知ってはいるが、風ばかりひいて鼻水が涙のように流れ、瞳等色っぽいと・・・いや

、何時まで 経っても餓鬼のようだと・・・いやいや・・・だからして

   風博士を知っているかいないかが問題ではなく、知っていても何の薬にならぬということか・・・

   さぁーて・・・。

   ご存じない方のために、風博士とは如何なるお人であったかを・・・

   風博士は一中一高帝大ととんとん拍子で階段を登り詰めたお人であった。今の喩で言えば麹町日比谷

東大ということになりましょうか。

   頭が良過ぎて、世間からは奇人変人横着者と讎なされ、新しい論説、真の真実を語り披露しても、大風

   呂敷を広げていると相手にされなかったお人でありましたな。とかく天才肌のお人は、世間から阻害さ

   れ冷たい仕打ちを甘んじて受けなければならないのが常というものてしょうかな。

   賢明なる皆様には、風博士がもう今生にいないということを、話の端ばしから察せられたことでしょうか

   な。

   尊し敬し、愛惜しくも恋しくも、心の師として敬っており ましたこの私、せめて、先生の爪の垢でも煎じて

   飲みたいと常々思っておりましたぞい。さすれば少しは先生のよう になれわしまいかと、垢を恋しがりま

   したぞい・・・。

   (手紙を出して)この手紙がとどいた頃には風博士は風のように宇宙の一塵となりましたぞい。

   だからして、この手紙は言ってみれば遺稿であり遺書ということになりますぞい。

   (懐から出した手紙を広げて読もうとしているところに)


     男二が登場して


男二  御免!雲博士には本日はご機嫌如何でございますかな。

   私が来たからといって、茶菓子を何にしようかとか、飲み物、特に日本酒とかの心ずかいは入りません

   。


    男一は雲博士であり以後雲と書す。


雲  (独白)何をほざいておる。蛸の足のくせをして・・・

   ああ、これはこれは、雨博士相変わらずのじめじめ顔でありますな。


    男二は雨博士であり以後雨と書す。


雨  梅雨の晴れ間・・・先夜までたわわに熟れた梅の実が雨に打たれて紫の涙を流していたが・・・

   今日はどうかしなさったか、今日のような日は入道雲のように天を突きか弱い人間を威圧しているのに

   、まるで腐った鰯雲のようではないか。・・・さては心の中に暗雲が垂れこめているな。

雲  今にも、大粒の雨がコンクリートを叩き穴を開けるような心境なのだ。

雨  風博士のことなのだろう・・・

雲  どうして知っているのだ・・・

雨  風博士が雨雲を吹き飛ばしどこかへ去ってしまったということは・・・風博士の弟子のおまえには・・・

雲  おまえさんは、風博士の仇敵蛸博士の弟子筋・・・心の中ではにんまりと・・・

雨  馬鹿な事を言ってはいかん・・・蛸博士あっての風博士・・・   

雲  それも言うなら、風博士あっての蛸博士というのだ。

雨  酒はないか・・・

雲  ない、あってもない・・・

雨  奇人であったな。

雲  世界で一番の賢学者であり博学者であったぞい。学問という学問はみな凌駕しておられた。蛸博士と

   は月とすっぽん、民主主義と社会主義の違い・・・

雨  変人であったな。

雲  何毎にも動じない、地震が来ても揺るがない重い精神の持ち主であられたぞい。

雨  転んでも起きようとしない、飯を食べるのも億劫、眠ることも怠ぎという横着者であっな。

雲  何をおまえさんは見ていたのだ。・・・広大無辺、なりふり構わずに一つの真理真実を世の人々のため

   にと・・・

   心の広さといったら宇宙の広さに負けてはいなかった。

   蛸博士と違うところは、心の広さと、腹の大きさの違いだったぞい。

雨  やめよう。今日は故人を偲んで喪に服し・・・

雲  風博士の足元にもおよばなかった・・・約束も拘束もなにもなく大らかな自由のお人であった・・・

雨  何分気紛、気分次第のお天気屋・・・

雲  何もかも計算ずくの生き方をするこのご時勢にあって、名もなく清く美しく・・・物を欲しがるでなく、名を

   欲しがるでなく、女人を・・・まあ、無欲の人その人の名は風博士!

雨  (ポケットからウイスキーを出し呑みながら)おまえには、風博士がそのように見えたか、さもありなん・・

雲  何が言いたいのだ。蛸博士のように風博士の論旨にけちをつけ、反対とほざいていれば良いという理

   論のない野党の人ではなかったぞい。

雨  それを贔屓の惹き倒しと言うのだ。バカバカしい、常識破れの言葉を連ね世間を煙に撒き悦にいって

    いたとしか思われなかった。

雲  そういうおまえさんこそ、どこを見ていたのだぞい。蛸博士のように真の風博士の理論が見えなかった

    ようだな・・                                                       

雨  現実が見えなくて、夢しか見えなかったお人だった。人の心を揺らすことにかけてはまったく天下一品・

    ・・

雲  その夢すらなく風博士の理論に反対しか出来ずに、風博士のお陰で名を馳せたのは、おまえさんの師

    である蛸博士であったぞい。

雨  何を言う、蛸博士が反対の立場にいたからこそ風博士は世間に認められたのだ。

雲  うううあ・・・おまえさんも蛸博士に似てきたな・・・

雨  そういうおまえも風博士に似てきたな・・・

雲  まだまだ、木立の葉を泳がすほどには・・・

雨  大きな体の半分もない軽薄者さ。

雲  嗚呼、嗚呼・・・

雨  ううう、ううう


    雲と雨が顔を見合わせて俯く。

    ポケットの手紙を取り出して、


雨  それはなんだい・・・(自分のは隠し)

雲  これは・・・(隠す)

雨  風博士の辞世の句でも書いてあるのかい。

雲  そんな安っぽいものではないぞい。

雨  だったら、たらたらと恨み言の数々を金釘文字で記した、恨み状・・・それとも、受け入れて貰えなかっ

    た世間に対する三行半か・・・

雲  真理真実が岩をも砕くように書かれた痛烈きまわりない遺書だぞい。

雨  俺にも読ませろ・・・

雲  だめ!おまえさんにだけは絶対見せられないぞい。

雨  どうしてそこまで・・・

雲  何のかんのとけちをつけるに決まっているからだ。おまえさんの萎びた心には優しい言葉もしみ込まな

   くなっているから駄目だぞい。

雨  そう言われると益益見たくも読みたくもなるのが人の情・・・

雲  おまえさんに人の情けがあったとは・・・

雨  頑固者が・・・

雲  薄情者が・・・

雨  ペテン師が・・・

雲  蛸博士の腰巾着が・・・

雨  やめた。

雲  ああ・・・あの無邪気でけれんみの少しもない、まるで赤子、貌容とした姿が・・・

雨  節操と言う字を知らない人であった。考えてみれば極めたものは何一つないことになる。

雲  総てを手の中に握っておられたのだぞい。

雨  ・・・だけど、どうして蛸博士まで消えたのだろうか・・                              

雲  何と言った今・・・

雨  ・・・実を言うと・・・蛸博士も糸が切れた凧のようにいなくなったのだ・・・

雲  両博士がいなくなったということか・・・

雨  昨夜大きな風が吹いた時に・・・

雲  あの大きな体の蛸博士が・・・蛸のように天に舞ったとは・・・(嗤った)

雨  どうしょう、どぅしょう・・・

雲  さて、さぁーて・・・(笑いがだんだと淋しさに変わる)


     男三が現われる


男三  君らの声は一町先の煙草屋までも聞こえていたぞ。雲が雨を孕んでこれから嵐でも起こそうという

     寸法かい                                                     

雨  何だおめえか、急に飛び出してきゃがって、いっだったか電信柱にぶつかって失神したことがあるだろ

    うが・・・


     男三を以後鳥と書く。


雲  なんだ鳥博士か・・・

雨  木立の葉の下に巣をかけ羽を休めていればいいものを・・・                         

鳥  なんだいなんだい、人が親切に美しい喉で落ち込んだ二人の心を慰めてやろうとしてきたのに・・・その

    言い草はないぜ

雨  ということは・・・

雲  だということは・・・

鳥  そうだょ、風博士も蛸博士もこの地上から消えてしまったってことさ。

雲  それをどうして・・・

雨  どうせそこいらに隠れて聴いていたのだぜ・・・

鳥  だから嫌なんだ、君達は両博士の悪いとこばかり見習っていいところは合併漕に流している。もっと賢

    い人かと思っていたのに・・・

雨  なにを!風博士に付いたり蛸博士に付いたり、八方美人の癖をしてからに・・・

鳥  すべからくすいすいと上手に世渡りをしなくては、このせちがらい世の中では生きられませんからね・・

雲  君には負けたよ。そうでなくては・・・

雨  おまえまでここへ来て変節することはないでわないか・・                            

鳥  弱いものは弱いなりに知恵を働かさなくては・・・。とこ ろで、お二人さんは両先生から最後のお言葉を

   賜りましたかな。

雨  なに!おまえは貰ったというのか・・・

鳥  はい。


     鳥は二通の手紙を取り出してみせる。


雲  風博士は偉大なお人だ。こんな端下な人にも声をかけられる。行く末を案じられ指針を授けられる、実

   に温情の人ではないか・・・

鳥  風博士も蛸博士も、私にとっては父であり母のようなお人でした・・・

雨  断じていうが、蛸博士はおまえを弟子だとは言っていなかった・・・

鳥  だったらどうしてこの様に、私にだけ遺書を残してくださったのでしょうか・・・

雨  おまえだけではない、この俺にだって・・・


     雨は一通の手紙を取り出す。


                       暗転









       二場


     スポットの中に男四が浮かび上がる。

     男四を私と称し書く。


私  これから謹んで風博士の遺書を披露をいたし、皆様と共に故人の遺徳を偲びたいと存じます。

   本日は、多忙煩多、奥方の機嫌が悪い方や、泣く子をほったらしておいでの方や、講義を途中にしての

   方や、女の子をホテルに待たしての方や、その外色々と事情のおありの方が、我が師、風博士の為に

   ご臨席くださいましたこと、弟子の末席を汚すこの私が高い所から心を皆様の足元に置きまして御礼申

   し上げます。

   さて、一応の儀式もとどこうりなく終わりました今、果たして遺書を披露いたすが博士の意なのか意でな

   いのかと迷いましたが、何分生前善行悪口半々に理解されておられましたことゆえ、その理解の一端

   にればと言う心根でこうして披露することにいたしました訳でございます。


     私は遺書を差し出し、頭上より上げ深々と一礼した。


   諸君、実を言うと蛸博士は実に実に勤勉にして事実情に熱く友情にも篤い誠に爽快な男である。我輩

   の一生の仇敵のように世間は囃子発ててはいたが、それは多いに間違いである。禿げていとか、その

   一本も毛のない頭に鬘を被っているなどとは、それは真っ赤な嘘であり、真実とは程遠をいものであり

   ます。世間と言う奴は、我輩と蛸博士を俎の上に乗せて、ああでもないこうでもないと対比することで喜

   んでいたようだが、実に下らない軽薄な風聞でありました。 

   我輩にとって、蛸博士は真実を研鑽する上で欠かせない存在であった。


     雲が出て来て


雲  この野郎、貴様は八百万の神々に誓って、最澄、空海、法念、親鸞、栄西、道元、日蓮の仏に誓って

   偽りを言っていないと断言できるのだな。


     雨が出て来て


雨  それでは世間が許さんというものだ。風博士と蛸博士は永遠の仇敵でなくてはならんのだ。

私  と言いますが、この私は先生の残された遺書を一字一句間違いなく・・・  

雲  蛸博士は禿であったと申され、そのことを隠すために何時も鬘を外さなかったということは・・・

雨  その件は・・・蛸博士はフサフサとした緑の髪を蓄えておられた、ということはまさに真実である。

私  その件は先生の遺書にも書かれている事なのでして・・・

雲  嘘だ。蛸博士の寝姿を見て、びっくりして産気づいた妊婦もいたし、気絶した警官もいたということは君

   達も知っているだろうぞい・・・

雨  それは・・・風博士が蛸博士を妬んで広げた流言蜚語であったのだ。

私  この私はただここに書かれている文字をはっきりと正確に読み上げているだけで・・・まあ、続けさせて

    ください・・・今をすぐること四十八年前、二人の留学生がパリに渡った。日本政府よりの官費留学で、

    ということは二人とも将来を嘱望され、留学が終わった暁には日本を動かし国民の為によりよい、教

    育と生活、生きるという真理と真実を教え向上させることが出来るという立場にいたのだった。

    考えてみてくれ給え、こんな充実した意義のある仕事があるだろうか。痩せてがりがりの私と円福を

    絵に書いたような蛸博士。未来はきらきらと輝いていた。

雲  だが、蛸博士が裏切ったのだぞい。

雨  風博士が一人良い子になりたがったのだ。

私  まあまあ・・・裏切ったとか、良い子になりたかったとかの次元の低いものではないのです。ひとつの理

    論が出ると二人は徹底した論旨を昼夜を問わずに繰り返し、理論を研き磨ぎより真実に近いものに

    仕上げていきました。

雲  仕上げた理論を我が者にしたのは、誰あろう蛸博士であったぞい。

雨  なにを、風博士こそ自分の理論として世に出したのだ。

私  待ってください。

雲  蛸博士は教養の欠けらもなかったぞい。広く浅い学問しかな・・・

雨  と言う風博士こそ、蛸博士を無学低俗と罵り、自分だけが世に認められ様とした卑劣漢である。

雲  その言葉はそのままおまえさんにお返しするぞい。

私  まあまあ・・・少し静かにして頂けませんか。たとえば二人の偉大な博士がフランスはピレネー山脈の

    麓に孤立した文明の地があることを発見なさったという真実は如何お考えかな・・・

雲  源義経が平泉から逃れ、蒙古に渡りチンギスハンになって欧州を侵略しそこで容として行方を発ったと

    いう話ですか                                                    

私  はい。

雨  バカバカしい時代感覚のずれ、若かった風博士もその頃から耄碌をし始めていたという立証になりま

    すな。

雲  それは故人を冒涜することになりますぞい。断じて許さんぞい。歴史の中で十年そこらが何であろう。

   その十年間というものが男のロマンというものですぞい。

   実に歴史の幽玄を冒涜するのも甚だしいというものですぞい。

雨  都合が悪くなるとロマンか、歴史を冒涜する・・・辻褄合わせにその言葉を使われては言葉が可哀相で

   ある。

私  まあまあ、お平らにお平らに・・・


     鳥が登場する。


鳥  なにをごじゃごじゃ言っているのですか・・・お二人の濁声は日本中はおろか、世界中の耳に届いてま

   すよ。

私  ピレネーの・・・

鳥  皆さんは真実は一つしかないと考えているようですな。

雨  断じて真実は一つしかない!

鳥  では、風博士がバナナを踏んで転ばれた一件をどのように考察されますかな。

雲  あれは蛸博士が故意に風博士を転ばせ、臀部ならびに肩甲骨を痛めんとしての行為であったぞい。

雨  そんな悪意は蛸博士にはかなかった。それは偶然というものだ。

鳥  偶然も計算が出来ると言うものです。風博士が蛸博士の寝室に入って鬘を盗んだという件はどうなん

   でしょうかな。

雲  君はどちらの見方なのだ。

雨  白黒とはっきりしろ・・・

鳥  鬘は盗まれなかった。次の日、蛸博士はきちんと鬘を付けていたという事実があるかぎり・・・

雨  そんなこともあろうかと、博士はもう一つの鬘を作っていたのだ

雲  語るに落ちましたぞい。フサフサとした緑の髪は実は鬘だったのかいな。

雨  ううう・・・あああ・・・

鳥  枝葉末節の理論は・・・

私  バナナの件は我輩がおっちょこちょいであった。そのことで蛸博士に迷惑を掛けたことは大変に遺憾

   であった。

鳥  その通り、そのことは風博士も悩んでおられた。

雨  それで自殺をしたというのか?

雲  風博士の奥方を蛸博士が誘惑し・・・

雨  言い寄ったのは蛸博士の奥方だったということだった。

雲  蛸の吸盤に吸い付かれ身動きがとれなくなって・・・

鳥  奥方のことは、博士は悩むどころか喜んでおられたょ。

雲  偉大なお方だ、両者をお許しになったのだぞい。

雨  寝取られその悔しさに奥歯を三本折ったというではないか                           

私  それは違います。蛸博士と奥方の幸せをこい願ったと 書いてあります。

雲  さもありなん・・・

雨  負け犬の遠吠え・・・

雲  なにを!

雨  やるか!

鳥  まあまあ、

雨  では、十七歳の花嫁をもらわんとしたことは・・・

雲  ああ、ああ・・・

雨  風博士もやはり俗人であったという証拠ですな。

鳥  美しい十七歳の女性に恋する、その心の豊かさ、衰えない

   愛の結実。先生は幾つになっても人を恋う心を忘れてはならんという教訓を残されましたのですょ。

雨  ではなぜ、式の当日に居なくなったのだ。

雲  おまえさんは何もわかってはいない、本日開店の店にあがるアドバルンのようなお人だ。

雨  何を!

私  その女性はピレネーの村の出身でした。つまり、源氏義経の末裔ということになります。

鳥  そのことがどのように風博士の自殺と関係するのだ。

私  実は・・・

雲  言ってはならんぞい。例えどのような拷問に駆けられても・・・心を一つにした妻にさえ・・・

雨  妻?刺身のつまのことか?

私  先生はこの結婚式を多いに期待され、また多いに失念されていたということです。

雨  はっきりと言え、口の中に飴玉をくわえたようにもぐもぐと言わずに・・・

私  燕尾服の胸にチューリップを刺されて・・・

雲  嗚呼、嗚呼・・・何と言う純情可憐なお人か・・・

雨  何時までも餓鬼なお人だったのだ・・・

鳥  心は大きく太平洋の波のようにうねり、もくもくと噴煙を上げておられたのです。

私  膝の上にはシルクハットを厳かに乗せられ・・・

雲  シャイなお人だったぞい。礼節を重んじられる・・・

雨  蛸博士は式に出席をするべく、まず湯を使おうと・・・

鳥  風呂に張られたものは、湯でなく冷たい水であったと言うことです。

雨  それこそ、風博士の企みだったのだ・・・

鳥  そのせいで、蛸博士はフランス風邪を引かれ・・・大きな嚏をされました・・・

雲  そのせいで風博士は宇宙の彼方へ・・・

雨  蛸博士は風邪薬を服用なさったのはいいが、なんとその薬は・・・

鳥  服用に際してはよく注意書きをお読みになってお飲みください。使用期限の切れた、それもパリーに留

   学中に買ったものだったというわけです。

雲  人の悪口ばかり言っているからこんな時にしっぺ返しをされたのだぞい。

雨  おまえの心は悪意に満ち満ちている・・・憐愍の情などないらしいな・・・おまえの師匠風博士のように・・

雲  何でも口に入れる卑しい根性が・・・

鳥  まあまあ・・・今更何を言っても、両博士には今生におられなくなられたわけだからして・・・

私  そうです。一陣の突風が・・・私はその瞬間愚かにも目を瞑ってしまっていたのです。そして開いた時に

    は・・・洋としてその存在を見付けだすことが出来なかったというわけです。

雨  大きな体が、三分の一に萎んでおられた・・・まるで萎びた蛸のように・・・

雲  ああ、ああ・・・

雨  うう、うう・・・

鳥  なんともはや、なにをか言わんやです。

私  あの・・・

雲  何だぞい、人が心地よく感傷に浸っている時に・・・

雨  涙で汚れた眼を洗っている時に・・・

鳥  敬虔な気持ちで、両先生の冥福をお祈りしている時に・・                          

私  さて、そうでしょうか・・・。私にはあなた方は両先生の表面の現象にあまりにも拘りすぎているようです

雲  何のかんのと言っても、風博士は風になられたのであるぞい。

雨  蛸博士は風邪薬の服作用が元で亡くなられた。

雲  実に惜しいお人をなくしたものだぞい。今まではおろかこれからも出てこられるようなことはないぞい。

雨  その言葉をそっくり蛸博士に貰い受けるぞ・・・

鳥  実にくだらん、そんな弱気でこれからどうなさるお心算もりか・・・。弟子として両博士の跡を継ぎその偉

    業を世に広めなくてはなりますまいに・・・

私  まあまあ・・・まだ、風博士の遺書を全部読み上げたわけではありませんからして・・・どこまで・・・ああ・

    ・・ バナナを過ぎて・・・

   バナナの件は我輩のおっちょこちょいの所意であった。先夜、無償にバナナが食いたくなり食した後、

   書斎から庭に投げたのだった。そのうえを我輩が歩いたというわけだ。世間という奴は、我輩と蛸博士

   を仇敵のようにあっかい、面白可笑しく物語を作っているが、世間という怪物は無責任なものだ。嘘八

   百を書きそれを真実として読ませる小説家より質が悪いものだ。

   妻の件も、元々彼女は蛸博士のものだったのだ。我輩が台風の夜無理遣り我輩のものにしたのだ。だ

   から、妻の心は常に蛸博士のことで一杯たっだったのだからしてあれで善かったのだ。

   我輩は心の穴を埋めるべくフランスとスペインの国ざかいのピレネー山脈の麓の村を旅したのだ。そこ

   でこの世のものかと見紛う美しい娘に出会ったのだ。

雲  風博士らしい・・・

雨  横着者の心に恋が芽生えたというわけか・・・

鳥  なんと素晴らしい事ではありませんか・・・

私  その娘はなぜか日本を恋しがり、潤んだ瞳を東の空に向けていた。その娘にとっては日本人なら誰で

    もよかったのだ日本に行けるなら・・・ああ、ああ・・・

雲  平泉の地へ・・・

雨  なんと面白くもない・・・

鳥  何百年の星霜を経ていても、受け継がれた日本人の心は先祖の生まれた地を恋しがるということです

   か。

私  その通りですが・・・その娘は実は・・・

雲  言うな!聴きたくもない・・・

雨  言え、言ってすっきりしろ・・・

鳥  君は風博士の遺書を忠実に正確に皆さんに披露しなくてはならないという責任があることを忘れては

    いけません。

雲  ああ、ああ・・・そんなものは忘れろ・・・

雨  言え読んでしまえ・・・

私  結婚の当日、蛸博士によって事実が明らかにされたのだ。つまり・・・

雨  三文小説の妬出だ・・・

鳥  言ってみれば真実は小説より奇なりだということです。

私  なんと、その娘は我輩の娘であったのだ。蛸博士の篤き友情に救けられ人間の道を踏み外さずとも済

   んだのだ。有り難きかな蛸博士。君はわが生涯の友だ。天を突くような図体にもまして、心の大きさは

   何に例えようか。神の御心、仏の慈悲・・・いやいや、そんな安っぽい言葉を何万辺嫌何億辺と唱えても

   足りないくらいだ。我が良き友、その名は蛸博士・・・賢学にして博学、偉大なる蛸博士に栄光あれ・・・

   ここで終わっております。

鳥  その遺書は君に当てたものを読んだのか・・・

私  はい。

雲  では、この私の手元にある遺書は・・・

雨  俺の手元にあるこの蛸博士の遺書は・・・

鳥  この懐にある遺書は・・・

私  さぁ、さぁー・・・


     雲と雨と鳥が取り出して広げる。


雲  ああああああ、あああああ・・・

雨  ううう、ううう、ううう・・・

鳥  かかかか、かかかか・・・

私  どうかいたしましたか?

雲  真っ白の紙に、ただ雲の様にと・・・

雨  新聞紙の中に挿まれた広告の裏に、ただ雨の様にと・・・

鳥  トイレットペパーに鳥の様にと・・・

私  それは風博士のものですか、それとも蛸博士のものですか・・・

雲  無論風博士のものだぞい・・・

雨  断じて蛸博士のものである・・・

鳥  両先生のものがきしくも一緒なのです・・・

私  雲博士は雲のように、雨博士は雨のように、鳥博士は鳥のように・・・

   ああ、忘れるところでした。三人の博士宛てに・・・

雲  君に託されたのか、先生の真実を・・・

私  雲は雲であれ、おろかな人間の心を感じ取り慈しみを忘れるな・・・。雨は雨であれ、悲しい人間の心

    に潤いを与えよ・・・。鳥は鳥であれ、貧しい人間の心に豊かな調べを与えよ・・・


     雲と雨と鳥は嗚咽している。

     雲と雨と鳥が出てきて


     「偉大なる風博士、偉大なる蛸博士」と繰り返しなが舞台を歩きながら雨の後に隠れる。


                         暗転


       三場


     雲が現われる。


雲  なにが何だか解らずに家に帰って、遺書を原稿用紙の上に広げ、雲と言う字をじっと見つめていた時

  、私の家の三太郎という猫が茶を引っ繰り返して、大切な遺書にかかってしまったぞい。

   浮かび上がったのは・・・そこには風博士の心が・・・

   「かの遺書はまるで嘘っぱちである」と読めたぞい。そして、頭が多少良かろうが、顔が少し整っていよ

   うが、痩せていょうが、太っていようが、金があろうがなかろうが、そんなことは些細なことよ。そんなこと

   で、僻んだり怨んだりしても何も解決はせん。ありのままに生きよ。ただただ心の赴く儘に、信じる道を

   進めば良い。ところで君は実際に蛸博士を見たことがあるかな。なかろう、我輩の言葉の中だけで信じ

   てしまっていたに違いない。そうであろう。 

   実を言うと蛸博士は我輩であり風博士も我輩であったのだ。このようにして多いに世を迷わすと良い。

   多いに人を騙して生きろ。その方が人生楽しいし、世間も喜ぶというものだ。

   真理真実は常識や道徳からは生まれないことを知るべきだ。嘘八百の中にこそこれからの人間に必

   要な真理真実が隠されているというものだ。

   まあ、精を出して励み給え・・・。そして、時間と暇と金が出来たらピレネーの村を訪れるといい。

   この我輩こそ、源義経でありチンギスハンであったことを証明してくれるであろうから。

   歴史とはそう言うものなのだ・・・・

   人間に必要なものはそれを信じる心なのだ・・・


                           幕



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